2024-04-08

家電

 今はまだ家電を買い替えようという気持ちはないけど、「買い替えるならこれだなー」というのは少し考えている。

 まずは洗濯機。浴室乾燥機があるので、乾燥機はいいや、と思い、5万円くらいの小型(6kg)の洗濯機を買った。悪い選択ではなかったけど、買い替えるなら洗濯乾燥機だなと思った。毎回干したり取り込むのがだるすぎる。洗濯乾燥機だと30万くらいするからね、初期出費を抑えたかったので仕方ないのだけど。金銭的に余裕があるなら洗濯乾燥機だなと思った。

 次に炊飯器。今使ってるのは、象印の圧力IH3合のもの。価格は3.5万円くらい。評判もよく、サイズも1人暮らしにちょうどよく、価格も圧力IHにしては割と安い。特に不満はないし、むしろ上々だと思うものの、買い替えるなら上位モデルにするかなーというところ。やはり米の味は生活のクォリティに直結する。ご泡火炊きとか炎舞炊きなどがあるみたいだけど、3合のモデルはやっぱ少ないな。

 

弁当屋

 私は、弁当屋のおばちゃんに好かれる傾向にある。理由はわからない。ただ、いずれの弁当屋も閉店してしまった。

 1つは、実家の近くのチェーン店の弁当屋。大学生の頃によく使っていたのだが、突如として閉店してしまった。行くといつも同じおばちゃんがいたのを思い出す。いつも、のり弁当かのりカラ弁当、ミックスグリル弁当を頼んでいた気がする。

 もう1つは、大学の近くの弁当屋。こちらは個人の弁当屋だ。こちらも大学生の頃によく使っていた。唐揚げが好みの唐揚げだったので、よく使わせて貰っていたし、通い続けていたこともあってよくサービスしてくれた。卒業してからも、近くに立ち寄る際は時々使っていたのだが、あるとき訪れたら、閉店していた。閉店したのはその1年前だったようだ。

 今は、行きつけの弁当屋はない。家で食べるときは宅配の冷凍弁当だし、外食するときは適当なところでイートインかテイクアウトで食べている。しかし、今思えば私はこの2つの弁当屋に行き続けていたのだった。弁当屋人間なのかもしれない。

 また弁当屋を探して行くようにしようかと考えている。

2024-04-04

中目黒のカレーパン

 向田邦子の「昔カレー」という作品で、「目黒の油面小学校の、校門の横にあったパン屋」のカレーパンが紹介されている。

 前々から気になっていたのだが、向田邦子の東京、仙台を歩くという記事に少し載っている。ただ、江戸東京野菜通信|大竹道茂の伝統野菜に関する情報ブログ: 向田邦子の昔カレーと油面小学校によれば、そもそも筆者(向田邦子の15歳くらい年下)の同級生は誰も記憶していなかったとのこと。ということは、向田邦子の記憶違いか、15年後には既に閉店したか移転していたということになる。いずれにせよ、油面小学校の校門横には、現在はそのパン屋は存在していないことになる。ただ、「校門から50メートルぐらい離れた油面子育地蔵尊の隣りが昔からあるパン屋で、そこのパン屋なら、私も子供のころカレーパンを食べたことがあった。」と書かれている。

 そのパン屋を探してみたら、 BOULANGERIE Jollyという店を見つけたので、たぶんここだろう。

tabelog.com 住宅街とだけあって、余りアクセスは良くない。この辺に行く機会があれば、立ち寄ってみたいと思う。

 

鹿児島

 向田邦子は鹿児島に一時期住んでいた。こちらも向田邦子の鹿児島を歩くで紹介されているが、じゃんぼ(リャン棒)が美味しかったとか向田邦子は綴っている。鹿児島は食べ物が美味しそうだから、行ってみたいところの1つでもある。

 九州は、博多と長崎しか行ったことがなく、南の方はまだ訪れたことがない。

 向田邦子が食べたじゃんぼの店は、桐原家両棒餅店というらしい。

tabelog.com 今春は小豆島・四国に旅に出たが、次は鹿児島か。

 適当に検索したら、羽田⇔鹿児島は約2時間。スカイマークやソラシドエアだと1万円くらいで、ANAJALだと1.5~2万円くらい。ジェットスターだと6,000円とかあるけど、LCCで2時間はちょっとキツいなー。四国から戻る際にジェットスターを使ったけど、「1時間だったら耐えられるけど、2時間はちょっとしんどいな」という印象だった。ちょっと狭いし、座席指定とかつけたら結局価格的にはスカイマークやソラシドエアと大差ないんじゃないかな。

 

 

アニメ

 昔はよくアニメを見ていたのだが、ここ10年くらいは見なくなっていた。

 昔はハルヒSteins;Gateまどマギ化物語禁書目録Fateなどを見ていた。毎シーズン何かしら見ていたのだけど、見なくなった。それは、おもしろいと思うアニメがなかったからだ。感性が鈍くなったのかもしれないし、単純に凶作の時期が続いただけなのかもしれない。

 ただ、興味関心の幅が狭くなるのは良くないと思い、ちょっと見始めることにした。

 まずはアーカイブ的に、古いものを見る。具体的には、無職転生。まずまずおもしろかった。他にも、呪術廻戦は最初の方だけ見た。それなりにおもしろいと思ったが、余り時間の余裕がなかったので、これはいずれ見たい。

 今季というか昨季は、葬送のフリーレンと薬屋のひとりごとを見ていた。フリーレンは、巷がいうほどにはおもしろいと思わなかったけど、普通に見続けられるくらいにはおもしろかったかな。薬屋は結構好き。

 やはり最近の流行りを把握するって大事だなと思う。自分が乗れるかどうかは別としてもね。そこに身を投じないと分からないことがある。5年くらい前に鬼滅の刃とか流行ってたけど、そもそも見てなかったからおもしろいもつまらないもなかったからな。

2024-04-02

サングラス

 結局、OakleyのWIRE TAP 2.0を購入した。

 レンズ交換も可能なようだ。フレームが安いので、取り敢えずAmazonで購入する。Amazonだと1.9万円だ。公式ストアだと3.5万円もする。

 レンズだけの購入も、実店舗だと一応可能らしいので(フレームの状態が悪いとダメらしいけど)、レンズは改めて実店舗に足を運んで購入しようと思う。

2024-03-31

OAKLEY

 スポーツ用のサングラスは先日買ったのだが、普段遣い用のものも欲しいと思った。

 最初に良いと思ったのは、OAKLEYのWhisker.

www.oakley.com これにすることをほぼ決めており、ただ一応現物は見ようと思ってOAKLEYストアに行った。そうしたら、Wire Tap 2.0というのが思ったより良い。

www.oakley.com 画像で見るとあんまり良くは見えないんだけど、かけてみると結構良い。

 なので、Wire Tap 2.0にしようかなと思ったんだけど、悩んでるのは度付きにするか否か。コンタクトレンズもあるから、度付きにする必要はないのだけど、度付きの方が気軽に使える。

 ただ、度付きにして、Prizmレンズにすると4.4万円もする。公式ストアの表記を見る限り、これでも1万円くらい安くなってるくさいのだけど、うーん。

 度なしだと、Amazonで2万切る価格で売っている。

www.amazon.co.jp これにして、度付きレンズが欲しくなったら別途改めて買うというのもありかも。

2024-03-27

タイパ批判

 最近の若者は、タイパ重視らしい。それに対して、世の中のおじさんおばさん達は憤っているらしい。

 もはや中年の私だけれども、別にタイパ重視でいいじゃんって思う。おじさんおばさんが何にキレてるのか分からないけど、「タイパでは省かれがちな重要なものがある」と言いたいのだろうか。あるいは、なんか情緒や思慮深さが養われないらしい。

 個人的には、情緒や思慮深さがないのであれば、別にその若者を見捨てればいいだけの話だし、若者に対して「情緒や思慮深さも大事だぞ。タイパだけではいかんぞ」とか説教する必要もないと思うんだけど。説教したいんだったら、タイパではなぜ情緒や思慮深さが身につかないのかを、ちゃんと言語化して説教すべきだと思う。

 我々老害世代ってそれが足りないんだよ。若者に対して「それじゃいかん」みたいなこと言い出すんだけど、なんか情緒やら思慮深さやら、よくわからない曖昧模糊とした概念を持ち出してきて、その必要性も説明しないし、どうやったらそれが身につくのかも説明しない。だから、若者に伝わらなくて相手にされない。

 私自身は、別に若者に伝える必要はないと思うし、勝手にすればいいじゃんって思うんだけど、若者をどうにかしたいと思うのであれば、ちゃんともっと説得的な説明をすべきだと思う。説明もしないで、なんか自分の都合の論理を振りかざしたら、そら伝わるものも伝わらないって。

 

 私自身は、タイパやらコスパを重視するのは良いことだと思う。私の世代は、上から「これをやれ」と言われ、「なんでですか?」と聞くと、「いちいちうるさい」「黙ってやれ」と言われた。まあ、そのやり方にも一理はあると思うのだけどね。取り敢えずやってみることで分かることってあるから。でも、なんで必要なのかを説明できない時点でダメだと思う。

 それに、タイパやコスパを重視することで、「これやる必要ある?」「これはもっと改善できるのでは」と進化するきっかけにもなる。たしかに、間違って必要なものを切り捨てる危険はある。でも、それも大事な経験。「あ、これは削っちゃダメなんだ」と学ぶことも大事。

 我々老害世代は、時間が無限にあるかのような前提で「これにも意味がある」「決して無駄にはならない」みたいなこと言い出すけど、時間は有限。ほとんど無意味なことをやらされて、「無駄ではなかったはずだ」みたいなこと言われるとキレそうになる。いや収穫がゼロではないというだけの話で、もっと有意義なこといくらでもあっただろ、機会損失ってことば知ってる?と問いたくなる。

 「タイパでは省かれる重要な価値がある」のであれば、そもそもタイパの計算の中に入れるべきものが入ってないっていう話なのよ。

 バブルも弾けて何十年と経ってるのに、護送船団方式じゃないけど、今までと同じやり方に固執するということほど愚かなことはない。大体、憲法は時代に合わせて柔軟に変えろとか言う割に、自分の仕事のやり方とかライフスタイルは頑なに変えないって、言ってることとやってることが無茶苦茶じゃないか。

 考え方とかライフスタイル、仕事のやり方、そんなものは変えていかないとダメだ。常に新しいものに挑戦して変化し続けることが大事。現状維持は衰退なのである。

 

学びと育ち

 これも色々見ていて感じる違和感なのだけども。

 「育てる」という誤った思考を持っている人が多いように感じる。そのためにはどうすればいいかを必死に考えている人がいるけど、根本的に話は逆なのである。

 人は育てるものではない。人は育つのだ。

 「育てる」などという、「自分の思い通りに人を操作する」かのような思考は嫌いだし、結局それは自分の劣化コピーを作り上げるだけではないかと思う。あるいは、自分の劣等感を背景に、勝手な理想像へと押し込むだけではないか。そんな風にして人を育てたところで、果たして優秀な人間になるのか疑問だし、本人の満足度も高くはならないのではないか。いわば、ミスマッチで一流企業に就職するようなものではないかと思う。

 人は育てるのではない。育つものだ。人は勝手に学び育っていく。大事なのは、その環境を整えることと、正しい成功体験を積ませること。というより、誤った成功体験を積ませないこと。そうすれば、自ずと勝手に育っていく。本人が自ら考え得た経験の方が、ずっと良く成長していく。そして、我々の想定外の育ち方をすることもあるだろう。でも、それは既存の殻を破り、新しい次元への飛躍でもある。教える側が自分の価値観に固執したら、縮小再生産でしかない。

 だから、そのための環境を整えることが大事。環境を整えるというのは、物的に優れた環境を整えるというのもあるが、むしろ大事なのは人的環境だ。競争と言ってもいい。優れた仲間を揃え切磋琢磨すること。これが大事だ。「優れた仲間」といっても、別に「全員が東大文1に受かるような人間」である必要はない。芸術で優れているとか、そういうのでもいい。むしろ、多方面で優れた人がたくさんいる方が良い。その中で、刺激を受けつつ、切磋琢磨していけば、自ずと育っていくだろう。

 「誤った成功体験」をさせないことも大事。たとえば、スポーツであれば、極端な食事制限とか過度な練習で、優勝してしまうことだ。これは本当に危険だ。短期的には効果があるかもしれない。けれども、そんなことを続けるのは不可能だ。実際にそれで潰れたアスリートなんて山ほどいる。けれども、それで全国大会優勝なんかしてしまったら、「こうしなければ勝てない」となってしまう。

 逆に、「良い成功体験」を積ませることも大事だ。たとえば、自分の苦手分野を必死に克服して、良い結果を収めた場合。それは、苦手分野の克服を頑張ったことを褒めるべきだ。そうすることで、「苦手分野の克服って大事なんだ」と学習し、今後もそういう行動をするようになるだろう。

 

2024-03-25

最近◯◯が増えた

 「最近◯◯が増えた」と思っても、大抵は根拠がない。というのは当たり前のことだと思ってたけど、どうもそうではないらしい。平気で「最近は◯◯が増えた」という人がいてびっくりする。

 「最近は◯◯が増えた」という言説は、

 ①客観的統計データを元にしている場合

 ②本人の経験を客観的に資料化して元にしている場合

 ③単なる本人の主観を元にしている場合

 の3パターンがあると思う。ヤフコメとかで「最近は◯◯が増えた」と言ってる人の大多数は、③だろう。

 その本人の主観は、(1)自分の限られた経験をベースにしている、(2)たまたまそういった事例に触れることが最近多かった、(3)報道で目にする機会が最近多かった、(4)過去を美化したりして都合の悪い事象を無視している、などといった要因によって形成されていると思う。

 たとえば、飲酒運転事故が多く報道されると、飲酒運転事故が増えているように感じるかもしれないが、ただ単に「これはバズる」と思ってメディアが報道しているだけで、報道される前からたくさん起きていた事象かもしれない。

 あと、「昔と違って最近はマナーが悪い」みたいに言う人が多いけど、戦前なんて、上野公園で花見をして、食べ終わった蜜柑の皮をその辺に放り投げたり、汽車に乗るときに窓を開けて外から荷物を放り込んで席取りをしていたという。どう考えても今の方がマナーが良い。というように、都合の悪い事実を意図的に無視しているのか知らないのか分からないけど、非常に偏ったサンプリングをしている可能性がある。

 要するに、「最近◯◯が増えた」は、適切なサンプリングから導き出されたものかどうかをちゃんと検証すべきであるが、そういう思考をする人が少ないのだなと感じる。「いや仕事ではちゃんとやるけど、SNSの書き込みだからそこまでやってない」というのかもしれないが、こういうのって日常の思考の癖だと思うから、そういう思考が身についている人はプライベートでも自ずとそういう思考はするものだと思う。もちろん、仕事のときほど厳格にはやらないにしてもね。迂闊に「最近◯◯が増えた」なんてことは言わないだろう。

 

きっと◯◯だろうと思う

 これもよく見かけるが、探偵団がどういうケースだったのかを推測するパターン。たとえば、轢き逃げ事故が起きたとして、「きっと飲酒運転をして発覚を恐れて轢き逃げしたのだと思う」みたいな。

 もちろん、可能性としてはありうる。けれども、そうでない可能性だって十分ある。現実に起こりうる可能性が他にもいくつもあるのに、1つのケースに決めつけて、おまけにその決めつけの上であれこれ議論をし始める人をヤフコメなんかだとよく見かける。

 居酒屋談義で「飲酒運転じゃね?」「だよねー」みたいに会話するぶんには構わないと思うけど、SNSの言説で勝手に決めつけて、それを前提にあれこれ議論をするというのは極めて不健全だろうと思う。「いや、他の可能性もあるかもしれない」とか躊躇しないんだろうか、と思ってしまう。なんで自分の推測が正しいと思うんだろう、その自信はどこから生まれてくるんだろう、と。

 そういう意味での謙虚さは重要だと思う。なにかあったときに人に遠慮するだとかそういう謙虚さではなく、「自分の考えは間違っているかもしれない」という意味での謙虚さ。「自分の考えは正しい」という確信は、証拠と論理によって導かれるべきものであって、自分の経験則なんかで抱いてはいけない。「俺はこういう人を何度も見てきた」という経験則で語っているのかもしれないけど、経験則はあくまで経験則だ。1つの有力な可能性を提示するものであるから、もちろん有益ではあるけど、経験則が当てはまらないケースなんていくらでもある。

 この手の人たちって、たぶん考えてないんだろうなって思う。本人は考えているつもりなのかもしれないけど、事象について「これはこうだ」と決めつけて断罪することしか考えてないんだろうと思う。私はむしろ、「どうしてこうなったんだろう。もしかしたらこうかな。でも違う可能性もあるかもしれない。」と考える方が好きな人間だ。ヤフコメの悪口ばかり書いているが、時々有識者が「こういうケースもある」みたいなことを書いたりするので、「あーなるほどね、そういうこともあるのかー」と参考になることもある。

 そういった具合に、私は色んなことを知るのが楽しいと思うけど、逆に思考の幅を狭めて、「これはこういうケースに違いない」と判断してそれで終えてしまう人が多いのかもしれない。

 

2024-03-21

イヤーソックの交換

 OAKLEYのサングラスが着たのだが、唯一イヤーソックのカラーが気に入らないので、換えることにした。

 取り外すのも少し苦労したけど、はめるのが本当に苦労する。オークリー イヤーソックの簡単な交換方法というサイトを発見した。どうやらエタノールが良いらしい。

 早速ドラッグストアで100mlのエタノールを買ってきたら、ものすごい簡単にはめることができた。

 

騙し・裏切り・嘘

 もう1年ほど前の話だけど、騙され、裏切られ、嘘をつかれた。といっても、詐欺とかそういう話ではない。かつて恋愛関係にあった人との最後。

 ただ、約束はことごとく破られ、嘘もつかれた。当時はものすごく頭に着たけど、時が経つともう気にならなくなった。要するに、相手にとって自分はどうでもいい存在になっていたんだなと。どうでもいい存在だから、適当に扱った。ただそれだけの話。

 「相手が間違ってる」と言うのは容易い。けれども、そうやって糾弾したところで、事態は何も改善しない。相手は、分かっててやってるのだから。言われたところでなんとも思わないだろうし、相手の気持ちも動かないだろう。

 当時の僕も、頭に着ていたとはいえ、「どうせ言っても無駄だな」と思ってほとんど何も言わなかった。ある程度は言ったけど、反応を見て「こいつに言っても無駄だわ」と思ってもう言わなかった。

 いつからか、僕は「言っても無駄だわ」と思ったら言わなくなった。昔は結構言う人間だったんだけど。言っても何も変わらないことだらけで、もう諦めるようになった。

 恋愛関係になくとも、プライベートの人間関係では、相手に憤りを覚えても何も言わなくなった。すっとFOかCOしていくようになる。そういう行動をするということは、相手にとって自分がどうでもいい存在だからに過ぎない。そこで注意をしたとしても、相手にとっての自分の地位が上がるわけではない以上、似たような事態は結局繰り返されるのだ。典型的には「約束を破る」とかね。

 だから、約束を破られたら、「約束を守れよ」と言うのではなく、「ああ、こいつは俺との約束はどうでもいいと思ってる人間なんだな。じゃあもういいや。」となる。どっちが正しいのかは分からないけど。言っても無駄な相手に怒ることに疲れたのかもしれない。