2026-02-12

 あいつの写真や動画がいくつかあったので、まとめて見返していた。

 やはりスマホの技術の進化というのは大きくて、綺麗に撮れていた。そして、いかにもあいつらしい場面を余すことなく撮れていたと思う。ご飯を食べるシーン、遊ぶシーン、ひっくり返ってるシーン、布団の中に勝手に潜り込んでるシーン、掃除機に怯えるシーンなど。結構カメラを意識する犬だったので、動作をやめてしまうことも多く、撮るのが難しかったのだが。結果的に満遍なく撮ることができた。

 綺麗に撮れていたので、手を伸ばせばすぐそばにあいつに触れるかのようだった。そして「そうそう、こんなことよくあったよな」と思い出した。

 

 やっぱり先代の犬は8年半前に逝ったので、どうしても記憶が薄れているところがある。見返しておぼろげながら記憶が蘇り、徐々に鮮明になる、というかたちだった。

 これに対して、やっぱ一昨日逝った犬は、逝ったときはやせ衰えていたとはいえ、まだ元気だった頃の記憶も鮮明なので、見返すとすぐに思い出せた。

 ただ、最後の5年くらいは撮っていなかった。衰えた姿を撮るのはかわいそう、というのがどうしてもあった。最後まで撮るというのも1つの考え方かもしれないが、どうしてもそれはできなかった。元気だった頃の姿を残してやりたい、と思っていた。

 

 こいつも先代も、一緒にいっぱい遊んでやった。犬が好きな遊び方をするのが、僕はうまかったんだろう。人間なんかより犬の方が好きだったのだ。犬の弟が欲しい、と言ったくらいなのだから。

 ただ、やっぱり見ているとあの頃に戻りたいと思ってしまう。あいつのいた頃に。

 

 でも、時は戻せない。どうしてもまだ現実を受け止めきれないところはある。

 心の整理のつけ方は分からない。ただ、しばらくはあいつの写真や動画を見返して、楽しかったあの頃を思い出したい。あいつは幸せな一生を過ごせたのかな。あいつが元気だった頃は、あいつが死ぬなんて想像できなかったからな。無限に遊ぶような、そんな犬だったから。もうあれから17年以上が経っただもんな、俺も歳を取るわけだ。

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 以下の内容は、上記の内容を書いてから暫く経ってから書いたもの。なので、少し違う話。

 お骨にした霊園は、最初に使ったのが僕の飼ってる鳥が逝ったときだった。気づけばもう16年も前になる。逝ったのは真夏の夜だった。ただ、霊園に行ったときのことは余り覚えていない。霊園に行く前のことは覚えているのだけど。僕の部屋で亡骸と一緒に一夜を過ごしたからだ。目が溶けかけてしまっていて、もう正視に耐えなかった。

 どうやってその霊園を見つけだしたのかは覚えていない。よく覚えていないが、霊園に向かい、そして焼いて貰った。それなりには綺麗に骨が残っていたように思う。

 そして、共同の墓地に入れることもできたが、骨壺は持ち帰った。今でも僕の部屋にある。

 

 それから7年後に、先代の犬が逝った。鳥は、発作が起き始めてから1年ほど、発作に幾度となく苦しんでいたのだが、夜中に発作が起こると、異変を察知した先代の犬が吠えて教えてくれたりした。

 そんな先代の犬も、視力を失ったり毛並みが悪くなったり、そして最後は認知能力が衰えてしまったけど、7年ほど長として生きてくれたのだ。最期は、今回と同様、もう命の火が消えかかっている状態で、最後に静かに逝った。病院に入院していたが、もう治療でどうにかなる状態ではなく、ただ命を永らえていた。そんな状況だった。最後の1年ほどは、もう予断を許さない状況だったから、僕も極力泊まりで出かけることは避けていたのを覚えている。それにしては、よく生き長らえたものだった。あの状態でここまで生き長らえたこと自体が、奇跡的といっていい。

 先代が逝ったのも9月頃だから、まだまだ暑い日だった。このときに霊園に行ったときのことは、まだ覚えている。とにかく暑かった。

 

 これに対し、一昨日逝った犬を葬った日は、雨も降り寒かった。ただでさえ気分が沈んでいるので、なおのこと気分が落ちる天気だった。この日は、もう枠が埋まっていたようだった。

 休日なのでこの日に合わせたという人もいただろうが、それでも1週間2週間も亡骸を保管しているとは思えないから、この数日以内に亡くなったペットが多かったのだろう。久々に雨が降って気圧も低く、気温も下がったのが、致命傷になったのかもしれない。

 

 ということで、霊園には16年前、9年前、そして昨日に行ったことになる。長い付き合いといえば長い付き合いだが、行ったのは3回だけだ。真夏に2回、真冬に1回。

 そして、たぶんもう行くことはないだろう。僕がペットを飼うことはないだろうし、実家がペットをまた飼うことがあっても(さすがにもう飼わないと思うけど)、正直いって何も思い入れがないので僕は付き添わない気がする。僕が好きなのは動物全般ではなく、自分と遊んだやつなのだ。

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 飼い鳥や先代の犬と違って、どうにも死を受け容れづらいのは、「現実を認めたくない」というよりも、「理解ができない」という方が強いかもしれない。

 体も丈夫で、大病を患ったこともなく、いつまででも遊びたがるような体力の塊だったから、死んでしまうということがどうしても理解できなかった。冷たくなった亡骸に触っても「まだ生きてるんだろ?寝てるだけだろ?」って思ってしまった。納棺のときに、首がぐらんとしたときに、ようやく「寝たふりなんかじゃないんだ」ということが分かったくらいだ。

 それでもやっぱり、理解が追いついていない。最後の方は具合が悪くなった様を見ていなかった、というのもあるのかもしれない。けれども、それをおいても、「あんなにずっと元気だったやつが、どうして?」って思ってしまう。

 写真や動画を見返せば、元気だった頃の写真はもう6年以上前だし、17年半も生きていれば衰えて当然なのに、そこで時が止まっているのかどうにも理解が追いつかない。

 

 僕が歳を取って、2020年がもう6年前だとか、2015年は10年以上前だということを、そもそも理解できていないのもあるかもしれない。

 こうやって、記憶だけが残り続けて、時間はあっという間に過ぎていくのかもしれない。自分自身、たぶん人生の折り返し地点は過ぎているのだろう。色んな要因が重なって、自分の理性も感情も追いつかなくなっている。